19/11/2015

「お寺体験―真宗のリトリート」で覚えられたこと。(イカロさんより)





「経験」とは、何かが起こる可能性がありながら、その何かに触れられることです。それには何よりも中止することがいります。しかし今の時代では「中断」することはほとんど出来ません。なぜかと「停止」することが必要です。それからすべてを考えて、見て、聞いて、ゆっくり考え直し、見直し、聞き直します。または、ものを感じて、もっとゆっくり感じて細かいことに取られて、自分の意見や信念や意志やオトーマな行動を停止します。それから注意と優しさを生かしながら眼を開き耳をかたむけて我がに対することを語り、ゆっくり学び、他人の言葉を聞きながら、出会いを大切にして黙り、辛抱して自分へ自分の時間を与え、空間に広がるようになることです。(Jorge Larrosa Bondía バルセロナ大学文学・教育教授)

ブラジル盆(11月2日)の連休で友人たちと真宗大谷派の南米別院(サンパウロ別院)で「お寺体験」の研修会に参加させていただきました。この「お寺体験」は特別な遣り方と意味があり、とてもありがたく学ばれたことを皆さんと一緒に考えたいと思います。
まず、ワギネル先生がおっしゃたとおりに「体験」は「経験」です。辞書調べると「自己経験」とも加えて、「体」は身体、物質、物体または真実の意味もあります。「験」は結果、試み、テストや実験を表します。そのためにこの「お寺体験」の目的はリトリートだけではなく、本質に「体験」の意味を感じて、お寺の日常生活、僧侶たちの活動を体験される研修でした。
二日間半での体験では色々教えられましたが、私にとって重要な教えは二つにまとめられます。1)経験積 2)正信偈の学習

私が参っていた他宗派の先生によっては「仏教儀式はただ法を身体で表す機会であり」とおっしゃっていました。その頃は素晴らしい教えだと思いながら先生はその教えの実行されていたことを感じていましたが今考え直してみると、その頃私は儀式は何か完全に分かっていなかったことが明らかになりました。正信偈をほめ称えるのは「法を表す」ことだと分かり、法を体験する、法を生きることだと教えられました。
正信偈、または正信念仏偈の意味は正しい、本質の信仰・信心、仏を念ずること、仏を称える韻文などの意味があります。ワギネル先生によって「念仏への正しい信心と信用の偈」と。
正信偈は私たちのために「阿弥陀如来の不可思議光」を体験される方法として親鸞聖人がお書きになった「偈」です。私にとっては信の心のエピックだと思います。法蔵菩薩から法然上人からずっと伝えられた教えと釈尊のお浄土の三昧から阿弥陀如来の大慈悲を現在の私たちに伝えられたのが正信偈です。

他宗の禅宗などで広大な伝統のつながりや現在まで教えを直接伝えた師を称することにはなかなか慣れていました。つまり、我々真宗門徒として、正信偈の同じ役目(真宗と古代仏教とのつながり)重要さを承知することは非常に大切だと思います。み教えの伝えはずっと経験と慈悲を根本となって体験なりました。正信偈は私たちの信心を正しい方向へ向けて、「仏、本願、釈尊、浄土の七高僧に帰依し奉る」を忘れずに生きていくことを指摘してくださる。
Larrosa氏よっては体験する者はさらされる者であり、経験する者の視点から見ると条件(自分の立場)、対立(ものに反対すること)、課する(ものを押し付ける)、提案(ものを申し込む)でも大切ではありません。つまり、危険と脆弱性を含んでものの展示することとどのようにさらされることが大切です。

もうひとつの視点は「体験を崩す我が」です。状態や対立や課しや対案する者やさらされない者などは経験することはできません。または何も通させない、何も行われない、何もに触れられない、何も付かない、何もに達しない、何もに脅されないことなんて実に何も起こられない意味です。
親鸞聖人の教行信証で読めます "All common being at all time, because of the greed mind from being contaminated. The mind, burning with anger and hate, is always ready to consume the Dharma-treasure. Hurriedly working, hurriedly disciplining themselves, like trying to repel an onrushing fire, (whatever good they may do) is called "good mixed with something poisonous and something not quite genuine". Again, it is called "discipline of falsehood and dissimulation."It is not to be called the "practice that is true and real."As long as they try to be born in the Land of Infinite Light by means of falsehood and of poisonous nature, they are attempting something altogether impossible. (in Shinran’s Kyôgyôshinshô – Daisetz Teitarô Suzuki, p. 133)
「一切凡小、一切時の中に、貪愛の心常によく善心を汚し、瞋憎の心常によく法財を焼く。急作急修して頭然を灸うがごとくすれども、すべて「雑毒・雑修の善」と名づく。また」虚仮・諂偽の行」と名づく。「真実の業」と名づけざるなり。この虚仮・雑毒の善をもって、無量光明土に生まれんと欲する、これ必ず不可なり。」(聖典 228)

親鸞聖人は「他力」の教えによって、経験の重要さを示させてくださる。阿弥陀仏の他力は行者の自力を超えてそれを打消します。そこに体験しながらお浄土への往生の道が明らかになってきます。この真宗の行の体験の重要さはLarrosa の言葉によって次のように確認できます:「経験(Experience)の言葉には 外部(Externaloutside)と存在(Existence)の言葉と同じように「EX」が付いています。経験とは存在を通すのです。本質も理性も基本なしで通します。経験はそのまま異常に、有限に内在、偶然にただ存続します。」と。

 または、ワギネル先生がおっしゃったように「竹笛のようになれ、音を通させ、音を流させ」と。
この「お寺体験」でもうひとつ教えられたのは研修生ひとりひとりは違った思考を持ちながら違った経験をこの研修で受けられたと思います。こういうことは結果として豊かな体験でした思います。大谷派では教行信証を使用しながら知的複数を奨励し、三点を基本になります。
1)経験そのままと人生経験。2)表象的思考。3)親鸞聖人の教えに直接のアクセッスしながら仏教そのものと伝統的批判することが許されます。

マウリシオ本諾先生の講義「大谷派の現代思想」については研修生たちに仏教に対するたくさんな可能性が開きました。ここに経験の主観を学び、経験の重要な意味を教えてもらいました。経験とは良いか悪いか、広いか狭いか、豊かか貧弱か、早いか遅いか、高級か初級かは分別できないことです。経験はユニークで私的であり、経験に心を開いた途端に経験に変化されることが大切な点です。お浄土へのこの道を歩み始めると阿弥陀仏の無限の大慈悲に支えられてみんな一緒に導かれます。

最後の教えは、真宗での如来の動的な様子です。私たちは尾畑輪番・監督から「念仏を申しながら生きていくことは仏の呼びかけを認めることです。無碍光と統一なり二元論や分別を消します。私たちはみ名を称するが、阿弥陀仏から呼びかけられます。阿弥陀仏は私たちに向かって手を伸ばしながら救ってくださいます。」と私たち研修生を歓迎されました。これが私たちの広大なインスピレーションを受けます。動的な仏は停滞している仏ではありません。私たち信心をありながら仏に向かって一歩歩み、これが今、ここで私たちの心の変換となります。

私たちは念仏を生きて、念仏道を歩むことに決定すると、触れるもの、見るもの聞くものでも全体に「法」を体験します。それで私たちの話の中や教えや態度などによって他人にも「法」を表すことができます。サンガと激しく同朋の暮らしかたを体験したことでどれほど自分は傲慢な自我強いである(または、自我強くなれる)か明らかになりました。
もうひとつはサンガの姉弟のシルヴィアさんから教えられたことは「山のように山積してる様ざまなシルヴィアを崩さなきゃならん」と。不完全な煩悩に沈み込んでる自分を注目し、様ざまなイカロを壊さなくてはならないことをこの体験で教えられました。どれほど自分は細かくて愚か者でありながら如来の光明と無限の大慈悲に照らされて、愛するサンガの皆さんと共に心を改めます。

最後に明らかにしていたいことはこの感想文の言葉で実にこの「お寺体験」で過ごした毎日の経験は完全に表すことはできません。どんどんこのような「お寺体験」を試みて、またほかの方々にも念仏を生きる真宗に教えられる機械を得られることを願います。

南無阿弥陀仏。

(Icaro Azevedo Matias)


「私たちの傲慢中に何でもに意見出しながら暮らし過ごします。それに、もし意見無し者いれば、生活の中に過ぎ去っていく自分の立場知らずになります。何でもに判断持たないことは、自分は偽者と感じながら何か物足らない気で生きていきます。それで意見とは待たなくてはならないのです。しかし、意見にオブセッショ持たすと経験が起こられる可能性を取り消してしまいます。そのうえ、私たちに何事も起こらないようになります。」Larrosa



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