13/02/2016

初めてのアプカラナ南米本願寺で真宗学院での学習会 (2016年01月31日) Icaro Azevedo Matias (釋慈教)




「人間は自分を見ることできず、他の人を鏡のように使用される指導者が必要です。」Roberto DaMattaより。

人類学者のRoberto DaMattaさんの言葉を引用させて私のアプカラナ南米本願寺で真宗学院体験された感想文を書き始めました。今まで書いた感想文の中でこれは非常に時間かかり、自分の感じられたことや考えを表すのにとても難しかったのです。
この体験は12月のクリスマスとお正月の間に行われました。それっきりお寺で過ごした日々を忘れず毎日繰り返しながらどのように私の経験を皆さんに表そうか、迷っていました。多分心の中で感情的な対照するサンガ生活が今になっても溢れているからです。または、四日間お二人の先生に教えられてますます心服します。

前にも書きましたが、他派から真宗の教師に歓迎されて仏道をしっかり歩むことに決定しました。本派本願寺の海野先生が「仏法との出会いについては合理的な選択に限っていません、ご縁によって仏法と出会います。」とおっしゃいます。私もその通りだと思いますので真宗との出会いは阿弥陀様からの呼びかけを受けて人間に対しての困難を納得してから自分の「行」として続きますようになりました。
大谷派(浄土真宗‐東本願寺)の先生方に対して感謝を表すテキストも前に書きましたが今回はこの感想文は二人の先生に申し上げたいのです。一人はワギネル先生です。ワギネル伯信先生のようにブラジルで仏道に献身される僧侶は少ないと思います。サンガについての色々心配し、知的深い経験と儀式作法の熱心さは感興させます。もう一人はもちろん、さゆり先生です。ほぼ毎日、欠かさず頼ってます。おふたりは私の感興になります。親愛なおふたりへ深く感謝の言葉を申します。
この感想文を長々書くるつもりなかったのですが、みなさんから冗長すぎると注意されます。冗長とは自分でも賛成しますが、しかし短い感想文では私の思いを表すことはとても難しいです。
結局、一言で学び中心を表すなら「儀式」です。または、儀式についての意義と大切さ、真宗に限らない伝統的仏教にも社会と人間への影響することに注目されました。ワギネル先生の焦点は儀式の練習で、または儀式の理解と経験も含めて大谷派の伝統の中に合わせてしっかり教えてくださいました。前に参っていた他宗派の先生が「仏教の儀式は身で仏法を表すことです。」とおっしゃいました。今はワギネル先生の儀式作法を見ていると前の先生の言葉を確認し、心に響いてきます。
大谷派声明の練習は正信偈、三淘念仏和讃や観無量寿経(平仮名を読もうとしたが、難しかったです)とお輪の打ち方も習いました。さゆり先生からは念珠作りワークショップはとても楽しかったです。その後も外陣出仕の作法について教えられた色々にも感動しました。夕食後の話し合い、飲みながら大笑いながら、さまざまな経験や教えなどを交換し、サンガ生活には難しいことも良いことがあり、実際のサンガを体験してきました。
つまり儀式について、人類学者のClaude Rivièreの書物「宗教の社会人類学」に「儀式は衆生のより多くの再発する古風な行為です。」と書きました。
または、思想家であるBenvenisteが「儀式 Rito 」と「順序 Ordem」はヴェーダのインドヨーロッパ語族の祖語で「rta, arta」の同じ語源です。宇宙の順序や人間と神の関係や人間どうし関係などを整理することを示します。Rivièreはもう一つ注意します、「ラテン語のritus は秩序のある、するべきことをするとの意味があり」とおっしゃいます。それにポ語の儀式Cerimôniaはサンスクリット語のkar (実現する)と môn(もの、出来上がりもの、聖なるもの) から由来します。
仏教では儀式はただ認知機能でなし、教えやメッセージを送り、または中心として、私たちを整列し、順序し、仏心とつなぎます。ですから、儀式を通して私たちは釈尊が悟った真実と出会います。つまり儀式はコード化された行為の組み合わせです。儀式の行為は厳粛な言葉やジェスチュアで重要な象徴を表します。
儀式は私たちを順序する提案とすれば、仏道儀式は私たちの日常生活に何の意味がありますか。多分色々の皆さんは「お念仏の働きは私たちを仏心と合わせること」と言われます。しかし、これだけですか。釈尊から三宝をいただきましたのは(1)仏、(2)真実とみ教え と(3)サンガ、僧侶と在家の修行者です。

法句経(ダンマパダ)で三宝に帰依しと教えられています。

人々は恐怖にかられて、山々、林、園、樹木、霊樹などに頼ろうとする。

山々、林、園、樹木、霊樹などは安らかな拠り所ではない。これは最上の拠り所ではない。
それらの拠り所によってはあらゆる苦難から逃れることはできない。

さとれる者(=仏)と真理の理(=法)と聖者の集い(=僧)に帰依する人は、
正しい智慧をもって、4つの尊い真理を見る。
苦しみ、苦しみの原因、苦しみの克服と、苦しみの消滅におもむく8つの尊い道を見る。

これら八聖道は安らかなよりどころである。これは最上のよりどころである。
この拠り所に頼って、あらゆる苦難から免れる。

(ダンマパダ14 ブッダ 188-192

サンガの僧侶や在家行者は偶然に釈尊が形成されたはずないです。サンガは重要な機能があり、監視することを超えます。サンガの重要なことは共同生活から縁起の教えに気づかされることです。分離を減らして、エゴを少しでも抑えながら無常の自我を知らせるためにサンガの役目です。最初のDaMattaの言葉を繰り返しに「人間は自分を見ることできず、他の人を鏡のように使用される指導者が必要です。」述べておきます。
または、儀式について私が尊敬する本廟式務部の竹橋太先生が『儀式においては何かと一つになるというのが最終的な目標です。統一感、同一感を感じて「ああ生きててよかった」「無条件に受け入れた」「抱きしめられた」という感じです。ですから、「同朋唱和」といわれるように「正信偈」をみんな共に読んで、同朋ということが願われているというのも、そのようなわけがあるからでしょう。』とおっしゃいます。
そのうえに、『共同体を必要としない人は、儀式などしなくていいわけです。(...) 共同体がなくなってきているということと、儀式がなくなってくるということは、イコールなのです。』ここでは竹橋先生ははっきり現在の人間がどれほど自己中心的な人になり、在家社会の無関心と分離して退廃、滅びていることを述べられています。
私たちはたびたび、仏教の行について自分の意志を強制します。まるで仏教に対して全部分かったつもりで、自分の意見を勝手に表し、仕来りをどう変更されるか、儀式を否定し、行を自分の都合に合わせたり、先輩の役目をしたり、わけのわからないことするでしょう。竹橋先生は、「間違っていても(同意しなくても)まず黙って聞いてみる。」と注意されます。実際に聞法においてもそういうことは必要なのかもしれません。「仏教を学ぶときにはやはり、自分がこう思うということだけを言っていては聞法にはならないでしょう。」と解決されます。
真宗の伝統では聞法を中心します。さゆり先生と儀式について話し合いの中で「真宗は身で覚える」(身と心を込めて)とおっしゃいました。ですから、私たちは儀式の重要さや声明や言葉やジェスチュアやお念仏などを分からなかったら、どうやって自分自身を理解できるのですか。どのように他の人を知る、救うことできますか。どのように私たちが真実を発見されますか。どのように仏心と結びつけられますか。しかし、なぜ私たちは仏心とつなぎたいのでしょうか。人に言い表せたいからですか。それとも、立派な念仏者と思われたくて、または尊い教師になれるかと人に見られたいからでしょうか。
仏教ではよく共感と慈悲を言いますが、または他のひとを知る、感じたりすることは絶えない実践なら、儀式なしではどう認められますか。ほかにどうやって仏と会えますか。ワギネル先生が仏法を自分自身で生きることを見てると真宗の道を歩み続く感興が溢れます。そして、我が人生を考えながら、人間として自分を問い、他の人と共同に生きていくためにも真宗の教えに影響されます。儀式を通して阿弥陀様の光明を見られます。阿弥陀様の光明を浴びて自分の欲とわがままに気づかれ、縁起の中に生きることを学びます。
さゆり先生は私たちがアプカラナのお寺で4日間過ごした間に「真宗の教えというのは我が身を突き、心を捕らえられて砕けるほど握られます。つまり再編するためにばらばらになった心を阿弥陀様の光明に照らされてもう一度集め直されます。」と教えられました。

最後に、毎田周一先生が親鸞聖人の言葉を引用します。

「外儀のすがたはひとごとに 賢善精進ぜしむ 貪瞋邪偽おほきゆゑ 奸詐ももはし身にてり」(正像末和讃)

毎日教師と話し合えることや本を読み、お寺行事や体験に参加し、同朋の友達とおしゃべりしてると、この真宗学院で学んだことの大切さを承知しました。

仏法との出会いと聞法することから儀式の素晴らしさと皆さんと先生方と過ごすしながら、いつか仏心と一緒になれるまでに感謝の心を表しておきたい私の感想文です。

南無阿弥陀仏 
慈教イカ
Arte: Icaro
Versão: Sayuri Tyô Jun

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